月命日

昨日は親父の月命日でした。あれから1ヶ月、いろいろなことがあった割にはとても長く感じました。もう半年ぐらい経っているのではと思ったほどです。

亡くなって間もなく葬儀の準備が始まりました。昔に比べればずいぶんと楽な運びなのでしょうが、とにかくいろいろな段階を踏んでいかなければ、葬儀にすら辿り着けないと感じました。父の最期を看取ってくれた従兄は終始行動を共にしてくれて、自分の足を考慮して葬儀と火葬が同じ場所で行える斎場を探してくれたり、自分が動けない部分はカミさんと走り回ってくれました。
葬儀社の担当者もとても親切な方で、次から次へと決め事をこなしながら、「すみません、お辛い時に。決めたこともつい忘れてしまうと思いますから、私の方でひとつひとつフォローさせていただきます」と、いつもいいタイミングで「キュー」を出して下さいました。
枕経で初めてお目にかかったご住職、ちょっと気難しい方かなとお見受けしましたが、葬儀の際に「先僧(ご住職のアシスタント)は何人にしましょう?」と聞かれ、「おひとり(先僧なし)でお願い致します」とお伝えた時、仏壇のお店を紹介していただきましたが、すでに購入先を決めていることをお伝えした時、あからさまに苦虫を噛み潰したような顔をされてしまいました。これからのお付き合いがちょっと大変になりそうです。
話を戻します。枕経をあげると、初めて家族やお出でいただいた方がお線香をあげられるようになります。通夜が亡くなった翌々日だったので、ご近所や友人の方々がたくさんいらっしゃいました。憔悴しているお袋に代わって、繰り返し自分が亡くなった経緯を説明しました。何回同じ話をしたんだろう・・・。

納棺師の仕事も初めて目の当たりにしました。3人でやって来て、マニュアルで決められているかのような挨拶と揃ったお辞儀。厳粛な仕事なので致し方ないのかな。体を清めている時は3人以外部屋には入れないので詳細はわかりませんでしたが、真っ白な旅の着物を着せ、足袋にわら草履、手甲と脚絆を着け、最後はきれいに化粧を施して納棺をします。ずだ袋には丸く千切った六文銭とひとつまみの米を入れ、好きだった俳句の本を3冊納めて旅の支度は整いました。始めてから2時間でした。整った遺体ばかりではないはずなので、本当に大変な職業だと感じました。

出棺は霊柩車ではなく、ワンボックスタイプの霊送車で斎場へ。ここからは葬儀社の担当者と決めたことを進めながら通夜と本葬・告別式が営まれました。帰宅してからは祭壇に遺骨を安置して再びご住職からお経をいただき、2日間にわたった葬儀は無事に終了しました。
やれやれ・・・と肩の荷を降ろしたいところですが、ここからが第2の山。健康保険や年金をはじめ多くの手続に奔走しましたが、慣れないために不備が多くて何度も足を運ぶことになりました。未だに相続の関係は何も手をつけていません。
手続と同時にお香典の記録やお返しの手配、仏壇・仏具の購入、四十九日法要の段取り。10月3日に法要を行いますが、その前に仏壇に魂を入れる「開眼供養」というものがあり、ご住職にご足労いただいてお経をいただきます。法要の前日には菩提寺に供物を届け、当日は供養と近くのホテルでお斎(会食)を済ませて、ようやく忌明けを迎えることになります。あとは一周忌を目処に墓石を建てることになりますが、また石の種類がどうだこうだと業者と話をしなくてはならないんですね。
この1ヶ月で1番感じたこと、下世話な話ですが・・・お金がかかります。亡くなっても火葬や葬儀が出来ず、「年金支給者の年齢が150歳」というニュースもありましたが、その気持ちが分からなくもありません。故人のために遣う訳ですからよいのですが、それにしても右から左へとあっけなく準備したお金は消えていきます。
備えあれば憂い無し、実感です。
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親父の死 その時・・・

親父の死から13日、大変な中にも日常の生活は少しずつ戻ってきています。葬儀にはたくさんの方に来ていただいたり、お悔やみのメールもいただきました。本当にありがとうざいました。親父もきっと喜んでいることと思います。

体調不良の原因は熱中症でしたが、検査をしていくうちに左足の付け根に「大動脈瘤」が見つかり、また先日のブログでも書きましたが、特定疾患の「特発性間質性肺炎」も進行している状態で発見されました。これまで病気知らずだった親父が強い倦怠感に襲われ、そのふたつの大きな病気に冒されていることで、相当のショックを受けていました。しかも、家族に迷惑をかけることを気にし、横になっていても誰かしら帰宅すると起き上がって何事も無かったように「おかえり」と言ってのける人でした。

国立系の病院では、
「大動脈瘤の手術は体力が回復してからで大丈夫」
「特発性間質性肺炎の投薬は強い副作用があるので、倦怠感が落ち着いてから」
「倦怠感は涼しくなれば治ります」
こんな理由から入院は許可されないどころか薬も処方されず、毎日エアコンを効かした部屋で寝たり起きたりの毎日でした。どうやってもだるさが取れないので、セカンドオピニオンとして大学病院で検査をしてもらうことになりました。
「また検査か・・・」
親父のひとことが胸に刺さりましたが、家族として放っておくことは出来ません。すでに隠居の身だった従兄が同行を心良く引き受けてくれて、最初の検査に出向き、数日後結果を聞きに出掛けるその玄関先で倒れました。たまたま自宅にいたカミさんが発見し、すぐに救急車を呼びました。迎えに来て外でおふくろと立ち話をしていた従兄が同乗して、その大学病院に搬送されました。

連絡を受けて会社から戻りながら自分は、「きっと大したことはないだろうし、これで入院が出来るきっかけが出来たから、親父もおふくろも安心するだろう」と、少しだけ安堵した気持ちになっていました。しかし、自宅で受けた救命医からの電話は、まったくその逆の内容でした。
「救急車の中で既に心肺停止状態で、今まで1時間以上心臓マッサージを続けましたが蘇生されないんですよ。これ以上は可能性としてはゼロですので、息子さんの許可を得て打ち切らせていただきたいのですが」
死んだ? なぜ? 今朝顔を合わせて「おはよう」って言ったばかりなのに。でも、カミさんと病院へ行って対面した時、本当に亡くなってしまった親父の姿を見て愕然としました。
死因は心不全でした。あっけない、いや、時間的にはそう感じるかもしれないけど、実は親父は家族の想像以上のストレスを受けながら、来る日も来る日も暑さや倦怠感と闘っていたんですね。病院へ行くのを嫌がっていた心は、玄関に辿り着いた瞬間に力尽きてしまったんでしょう。

夕方数時間ぶりに無言の帰宅をした親父は、実に静かな顔で眠っていました。心の中のストレスや悩みから、すべて解放されたかのようでした。
その晩、二人きりで夜通し親父と話をしました。物心ついてから今日まで、ひとつひとつ記憶を辿りながら、楽しかったこと、喧嘩をしたこと、泣いたことを思い出しました。泣くまいと思っていましたが、やっぱりダメでした。でも、夜が明ける頃には自分も腹の内をすべて曝け出したせいか気持ちが楽になって、以後不思議と一粒も涙は出ませんでした。しっかりと送ってあげるのが恩返しと考え、葬儀が終わった現在もカミさんと共に手続や法要の準備に駆けずり回っています。

会社へ行く時はいつも寝ていた親父が、亡くなる朝トイレに起きてきて、
「今日検査の結果が出るんだろ? 気をつけて行ってきなよ」
「おう、ありがとう」
こんな会話を交わしました。きっと最後の貴重な時間を神様が与えてくれたんですね。

遺影はおふくろが選びました。5月に傘寿を迎えたお祝いに我々夫婦から両親に露天風呂付きの宿をプレゼントしたのですが、食後に仲居さんに撮ってもらったお気に入りの1枚でした。
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