講演会でわかった大人たちのネガティブさ

昨日浜松へ行き、予定通り「いじめ」「日本の子供と外国の子供の比較」について、リッキー久保田と共に話をさせてもらいました。演題は、
「日本の外側から、日本の文化を考え直す」
主催はその地区の社会福祉協議会。どんな活動をしているのか、文字からは何となく想像はつきますが、今ひとつよくわからない。それが、聴講者やスタッフの態度に如実に表れました。

直接対応して下さった研修部の部会長氏は、腫れ物に触るような気の遣いようで、PAをセッティングしている我々に張り付き状態。予め胸につける花や横断幕はお断りしてあったので問題はなかったのですが、
「ご紹介は、我々の方でやらせていただいてよろしいですか?」
「ご紹介した時に後ろから入場していただいて、拍手でお迎えする形にしたいのですが」
そこで、リッキーがひとこと。
「今日の主役は来ていただける方々ですし、仰々しい紹介は本意ではありません。客席に座っていて、司会の方に呼んでいただいたら、あとは任せていただけますか?」
食事中にリッキーが言ってましたが、講演会っていつもこんなものなんだそうです。

午後1時に受付が始まりましたが、聴講者は年配の方ばかり。しかも、みんなきっちりネクタイを締めていました。おまけに入口付近に屯して何やら話していました。
「こんな難しい演題じゃわからんよ。座ってるだけでいいんだろ?」
「フォーク? 俺は演歌の方がいいなぁ」

午後1時30分開演。会長氏の挨拶の後紹介を受け、演壇に上がりました。準備した120席は大方埋まっていましたが、7割がどんなにひいき目で見ても6~70歳代。とうに子育てを終えて、悠々自適に暮らしているような年齢層ばかりだったんです。「座っているだけでいい」と言う人たちが、今回のテーマで話を聞いても・・・。

まず、リッキーがネパールの子供たちの話を始めました。

・ノートが無いので、算数の授業を運動場で行う。
・画用紙を渡しても、もったいなくて使えない。絵を描いてくれないかと頼んだら、わら半紙のさらに質の悪い紙に、色鉛筆で丁寧に描いてくれた。多分、今でも画用紙は教室に飾ってあるかも。
・水や食べ物を絶対に無駄にしない。物をとても大切に扱っている。
・学校へ来ている子供たちは、みんな勉強したがっている。知識を身につけて、両親や兄弟たちに少しでもいいから、楽な生活をさせたいから。

ネパールの子供たちの笑顔は、とてもきれいだそうです。日本はどうでしょう。何の目的も持たずに学校へ「行かされている」生徒がどれくらいいるでしょうか。兄弟がいるのに、毎年新しい楽器や道具を買わされるし、学年が上がれば学用品もすべて買い換えます。高価なものを望まなければ、欲しい物はすぐに手に入る日本。それが当たり前になっているくせに、変な理屈をこねて給食費を払わない親たち。
ひとりひとりが、ほんの少しだけ
「もったいない」
という意識を持てば、僅かながら無駄遣いは減るのではと思いました。

「いじめ」については、自分の経験を元に話をさせてもらいました。登校拒否寸前まで精神的に追い込まれたのを救ってくれたのは、いっしょに行動してくれる友達がいたことと、担任のフォローでした。書き始めるとかなり長くなってしまうので省略しますが、リッキーとの共通の意見は、
「大人の世界でもいじめはある。会社や組織の中でそれがある以上は、子供たちのいじめはなくならない」でした。

「演歌の方がいい」という人たちの前で、我々はフォークソングを3曲歌いました。退屈そうな表情が一変したのは、リッキーからの最後のひとことでした。

「今日動員された方、正直に手を挙げてもらえませんか?」

ホール内の空気が一瞬固まり、その直後ひとりの女性が手を挙げました。すると、辺りを見回して明らかに驚いている様子。
クルマに乗り込む際に、研修部会長氏が言い訳のように言っていました。
「地域に千枚ほどパンフレットを配ったんですが、昔からPTAが協力的ではなくて・・・。いろいろ策は講じているんですが」
帰りのクルマの中で、リッキーが言っていました。
「今日のはほとんど動員だと思うよ。あの手を挙げた女性が見回して驚いてたろ? それから、メモを一生懸命にとってくれていた人たちは、学校の教員だって。質問に来てくれたからわかった」

今回の演題を見てもらえば、どの年代層に聞いてもらうのが1番的を得ているのか、わかってもらえると思いますし、人が集まらないからと、なぜいきなりマイナス志向からスタートして、講師に気を遣うために帳尻合わせをしてしまうんでしょう。せっかくの機会も、お互いに気まずい思いが残るだけのものになってしまいました。

友達だから言うのではありません。リッキーは、皆さんが想像を絶する多忙さの中で、数多く講演を引き受けています。しかも、誰でもが難しい話を好む訳がないことくらい、重々承知をしています。いかに面白く、楽しく、そして考えさせるようにするか、常に努力しています。
今回この地区の方々は、本当に貴重な機会を逃した、それこそ
「もったいない」
と、思ってしまった訳です。

講演会の様子は、こちらからお入り下さい。
スポンサーサイト

ちょっとひと仕事

パソコンの修理が完了して、本日復活しました。
原因は、マザーボードの不具合。CPUに高負荷がかかると、電源が落ちたり、動作不良を起こしたりということで、バージョンアップしたボードに交換してもらいました。
あれやこれや動作確認をした結果、問題なし!データの消失も無く、ホッとしました(バックアップは取っていたけど、インストールが面倒)。

午後からは、さっそくパソコンを使ってちょっと資料作りを・・・。
明後日浜松市内のある社会福祉協議会からのお招きで、お話をさせていただくことになりました。演題は

「日本の外側から日本の文化について考え直す」

です。社会問題になっている「いじめ」について、日本と海外の文化の違いを比較しながら、子供たちの置かれている環境を見直そうというものです。とは言え、この無知無学のオヤヂがそんな大層な事をひとりでやれる訳がありません。

実は、某大学で「こども健康学科」の学科長を務めている同級生から、「いっしょにやらない?」と声をかけられたからなんです。

①「障害者」だから小学校時代にいじめられ、それをどのように克服したのか経験談を紹介してほしい。
②添乗員として主に東南アジアを回っていた時に見た、子供たちの住んでいる環境を紹介してほしい。
③最後にミニライブまでやってしまおう。


あらゆる方面で、子育てや教育についての活動を展開している彼と、①や②について対談形式で話を進めてみようかと画策しています。
そして昨年11月に、やはり浜松市内で行った彼の講演会で、最後にミニライブをやらせていただいたのですが、それに今回の会長氏が参加されていて、「ぜひ我々のところでも」ということで③が決定しました。

小学校時代に受けたいじめ、その時自分がとった行動を書き出していきました。いきなり背後から蹴りを入れられたこと、体育を見学していた時に、お金が紛失した出来事があって、真っ先に疑いをかけられたこと、上履きを隠されて1日靴下のまま校内を歩き回ったこと等・・・。

あと、いじめではないけれど、中学の修学旅行で自分は当たり前に行くつもりでいたのに、確認もされないままはずされてしまったことがありました。あれは悲しかったなぁ。

添乗員時代、タイやベトナム、カンボジアで、学校へ行くことも出来ずに、土産物屋で働く子供たちをよく見かけました。生活は楽ではないけれど、とにかく元気で、その時の笑顔ときたら、日本の子供と比較にならないほどの明るさがありました。「物がある」「食料が溢れている」ことに対して、危機感を覚えたことがありました。

そんな話をしたいと思っています。



机上旅行 3

12:57 長万部駅到着。函館本線に別れを告げ、この先は室蘭本線~千歳線を走ります。この路線は、鉄の町・室蘭、製紙工場が立ち並ぶ苫小牧や千歳空港を通過する、言わば花形路線となっており、特急や急行が頻繁に往来しています。いち早く複線化や電化を完了したことが、その重要さを証明しています。
一方「山線」と呼ばれる函館本線の長万部~小樽~札幌間は、ニセコ以外に目立った観光地もなく、複線化はおろか電化もされていない状態。まさにこの長万部が、陰と陽の分岐点となっているのです。

1分の停車で、「おおとり」は先を急ぎます。利用者が多いため、これからは頻繁に停車を余儀なくされ、平均速度が大幅に落ちることになります。
13:27 洞爺 13:57 東室蘭 14:11 登別と停車し、両側に太い煙突が何本も見え隠れしてくると、苫小牧に到着です。このところこの地域の発展は目覚しく、港湾付近には大手製油所も進出し始めました。札幌への高速道路も整備され、花形路線と言えども、今後JRは厳しい競争を余儀なくされるはずです。

14:40 競走馬の故郷・日高へ向かう日高本線と分かれ、「おおとり」は先を急ぎます。しばらく直線区間となるため、ウトナイ湖に源を発した湿地帯を100Km/hで疾走。時たまきしむ音が聞こえ、老体にムチを入れている感が否めませんでした。

14:57 千歳空港駅に到着。この時代には画期的な、「空港に直結の駅」を謳い文句としていました。が、現在の新千歳空港のように地下に列車が乗り入れている訳ではなく、駅舎から国道36号線と、広大な空港駐車場を跨ぐ200mの専用通路を通らなければ、空港内に入れないというものでした。おまけにカートが用意されていなかったので、重い荷物を持った旅行者には、痛し痒しの通路だったそうです。

千歳空港駅を出発し、しばらく走ると森が消え、住宅の数が増えてきました。すると「おおとり」の俊足ぶりは衰え、まもなく札幌に到着する旨の案内放送が流れました。乗客の大半は網棚から荷物を下ろし、身支度を整え始めましたが、「おおとり」にとっては札幌は単なる通過点。全行程の43%を走破したに過ぎないのです。きっと札幌では、網走へ向かうたくさんの乗客を飲み込むに違いありません。

15:28 札幌駅1番線に到着。ホームは、乗降客でたちまち溢れ返りました。「おおとり」は、6分の停車時間に車内販売用の荷物を積み込むと、道東を目指して出発していきました。

北の玄関口であるはずの札幌駅ですが、老朽化が進み、ホームの数も足りなくなってきました。来年青函トンネルが開通すれば、本州からの寝台列車が数多く運転され、新千歳空港が開港となれば、当然連絡する列車が増発されるでしょう。それを緩和するために、現在駅の北側では全体を高架化する工事が急ピッチで進行していました。これが完成すれば、4面8線のホームが5面10線に生まれ変わり、1・2番線は将来のために新幹線の規格に対応させるのだそうです。

さあ、7番線にこの旅の最後の列車、急行「宗谷」が入線してきました。昭和40年代に製造された旧型のディーゼルカーが5両連結され、稚内までの約400Kmを6時間30分かけて走破する、急行とは名ばかりの鈍足列車なのです。
16:28 約50%の乗車率で札幌駅を出発しました。旭川までは電化されていて、最速の電車特急「ライラック」は、1時間36分で駆け抜けるところを、「宗谷」は、2時間(停車駅は同一)を要し、非常に肩身の狭い思いを強いられる区間です。

母なる川・石狩川を渡り、石狩平野の中央に位置する岩見沢駅では、わずか30秒の停車。その後普通列車の少ない路線をカバーするように、滝川・深川と停車し、18:22 旭川に到着しました。
旭川は、北海道内でも2番目の規模を誇る駅で、これから向かう稚内への宗谷本線、網走へ向かう石北本線(実際は2駅先の新旭川)、そしてドラマ「北の国から」で有名な富良野線の分岐点となっています。

18:25 出発です。この指定席の車両も、だいぶ空席が目立つようになって来ました。車内販売の業者が積み込んだばかりの「蝦夷ほたて弁当」600円を買い、新鮮なホタテの味に舌鼓を打ちました。旅の醍醐味です。
「駅弁ばかりで飽きないのか」
とよく聞かれますが、駅の立ち食いソバはほとんど利用したことがありません。列車に揺られながら、その土地の駅弁の包みを開き、食べる。これが、ささやかな自分のこだわりなんですね。

19:47 深名線・名寄本線の分岐駅・名寄を出発した頃には、外は漆黒の闇。この車両の乗客も10人ほどになってしまいました。自由席の様子はわかりませんが、この時間に北を目指すのは、土地の人か自分のように物好きな旅人の他にはいないでしょう。車内は話し声も聞こえず、ただレールの繋ぎ目の音が、規則正しく響いているのみでした。

20:40 音威子府(おといねっぷ)で天北線と分かれ、21:54 幌延 22:12 最後の停車駅・豊富を出発。しばらくすると、どこからともなく潮の香りがしてきました。ここから約40Kmは、日本海に沿って、しかも海岸線ぎりぎりに北上して行きます。サロベツ原野の真ん中を走り抜け、昼間なら利尻島や礼文島が、驚くほど近くに見ることが出来ます。
列車は右へ左へとコースを変え、海岸線から遠ざかると、稚内到着を知らせる放送が流れました。眠っていた乗客たちは大きく伸びをして、網棚から荷物を下ろし始めました。窓の外を眺めるでもなく、淡々と下車準備を整えている乗客たちは、やはり土地の人なのでしょうか。

23:01 この日の最終列車として、急行「宗谷」は稚内駅に到着しました。上野を出発して、実に24時間41分の旅が今終わりました。乗客のほとんどは感慨に更ける訳でもなく、そそくさと改札口へ向かいます。ホームに残っているのは、駅名標をバックに記念撮影をしている3人組と自分だけ。その3人組も、ペンキの剥げかかった「ようこそ最北の町・稚内へ」と書かれた看板に目を留めると、指をさして何やら話をしながら改札口へ消えていきました。

列車の前方20mで、ぷっつり線路は途切れています。日本の最端が終着駅なのは、ここ稚内だけ。名実ともに日本の最果ての駅なのです。大きな看板よりも、この情景はそのことを如実に物語っています。
それを見たいがためにここまでやってきた自分を、眠りについた町と遠くに聞こえる波の音が、静かに迎えてくれているような気がしました。     (終)

-あとがき-
長ったらしい机上旅行記を、もし最後まで読んで下さった方がいらしたら、お礼を言わせて下さい。
当時の時刻表と、自身で書き留めたメモを材料に、記憶を辿って記してみました。
国鉄がJRとなる3年前の1984年に、国鉄の全線走破を終えました。大赤字の国鉄ではありましたが、長距離の特急・急行が次々と大都市を出発していく様は実に圧巻でした。
「そんな時代に戻りたい」
叶わぬ望みですが、当時を思い出したくなったら、また時刻表とメモを引っ張り出して書いてみようかと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

机上旅行 2

目が覚めると、外はすっかり明るくなっていました。時計を見ると午前5時を少し回ったところ。予定通りなら、ほんの数分前に盛岡を出発したはず。東北新幹線なら2時間45分で到着しますが、「はくつる1号」は、5時間をかけてやって来ました。寝台列車は、ある意味時間を贅沢に使う乗り物なのかもしれません。

八戸、野辺地と定刻通りに出発。あたりは身支度を整える客たちで、ざわついていました。1車両に2つしかない洗面台には列が出来ています。この時代は、寝台を含む夜行列車は人気がありました。自由席に乗り込む客は、何時間も前にホームに並ばなければならず、席が埋まってしまうと通路に新聞紙を敷いて、人目も憚らず眠ってしまうのが普通でした。
終着・青森が近くなると、車掌が青函連絡船に乗船する客に、乗船名簿を配り始めました。名簿の上部には赤い線が記されていて、特急列車からの乗り継ぎを意味し、優先的に乗船することが出来ます。

7:15 「はくつる1号」は、定刻に青森駅に到着しました。相変わらず国鉄、いやJRのダイヤは世界一の正確さを誇っています。
ドアが開くと、客たちは一斉に桟橋に向かって猛ダッシュを開始しました。青函連絡船の自由席を確保するためです。青森に辿り着いた郷愁に浸るのは、乗船してからということになります。
潮風に濡れた桟橋は滑ります。大きな荷物を持ったまま、転倒する人を何人も見かけました。

乗り換え時間は、わずか15分。今日の連絡船23便は「摩周丸」。この船は退役後函館桟橋に係留されて、連絡船記念館として余生を送る運命にあります。
7:30 「ほたるの光」に送られて定刻に出航。船室で早居眠りを始める人、デッキに出て先ほど味わえなかった郷愁に浸る人、見送りのいる人、いない人と様々ですが、本州を離れ北の大地へ向かう人というのは、どこか物静かな印象があります。翌年(1988年)の4月に青函トンネルを含む海峡線が開業すれば、この情景も一変するはず。そしてこの青函航路も、80年の歴史に幕を引くことになるわけです。

この日の津軽海峡はうねりもなく、快適な航行が続いています。しばらくは左側に津軽半島、右側には下北半島を望むことが出来ます。船室に戻り、あんパンと牛乳の朝食を摂った後、少し眠ってしまいました。旅の疲れと、耳にやさしく響く北海道弁が、いい子守唄になったようです。

案内放送で目を覚ますと、すでに目の前には函館山がありました。わずか標高300mのさもない山が、毎年とてつもない数の観光客を魅了しています。自分も何度か登りましたが、確かに夜景の素晴らしさは筆舌に尽くしがたいほど。海峡線の開業で、来年はもっと賑やかになるはずです。

3時間50分の船旅を終え、連絡船は函館桟橋に接岸しました。ここからさらに北へ向かう人たちは、乗り継ぎ列車の自由席を目指して、再び猛ダッシュを開始しました。ここでの乗り換え時間も僅か15分。特急列車の本数が少なく、乗車時間の長い北海道で席を確保することは、旅の疲れの度合いを左右する重要な要素なんです。
自分は予め指定席を用意してあったので、余裕を持って函館駅のホームに到着しました。ここから札幌までは、「おおとり」という特急列車に乗車します。この列車の最終目的地は網走で、実に660Kmを9時間20分かけて走破します。この時代、北海道ではこのような長距離を走る列車が多く運行されていました。

11:35、ディーゼルエンジンを響かせ、「おおとり」は逆「く」の字になった函館駅のホームを滑り出しました。いくつものポイントを渡り終えると、徐々に速度を上げていきます。指定席はほぼ満席。両側の窓の外には雄大な景色が広がっていますが、それを楽しんでいる人は僅かしかいません。

検札の後、車内販売のワゴンが回ってきました。15分の乗り換え時間では弁当を買うことは難しいためか、駅弁が飛ぶように売れていました。売れ筋は、この後停車する長万部駅の名物駅弁「かにめし」。寿司飯の上に、カニをほぐした身がびっしりとのっています。森駅の「いかめし」と人気を二分していて、自分もこの路線ではどちらを買おうかと、いつも思案に暮れるところです。今回は「かにめし」を選択。右側に広がる内浦湾を眺めながら、久しぶりのごはんの感触を楽しみました。

続きます・・・。

机上旅行 1

カッコつけると、virtual trip とでも言うんでしょうか。
愛読書のひとつに時刻表があります。「隠れたミリオンセラー」と呼ぶ人もいるくらい、誰でも一度は手に取ったことがあると思います。自分はコイツと出会ったのが中学1年の時で、狭い机の上で日本中を旅出来る魅力に嵌ってしまい、一時は仕事の道具としても使っていました。
最高気温が8度の静岡県東部、今日は久しぶりにのんびりと机上旅行を決め込みました。

本棚から引っ張り出した時刻表は、1987年4月号。国鉄からJRに切り替わって最初のものです。3月号までは、背表紙に「日本国有鉄道編集」と記載されていました。4月号の編集も国鉄なのですが、「JNR(JAPAN NATIONAL RAILWAYS)編集」と変更されています。5月号から「JR編集」と記載されるために、アルファベットを用いてイメージギャップを少なくしたのだそうで、言わば後にも先にも「JNR編集」と記載された時刻表は、これ1冊だけです。
KC370001.jpg

今まで大切に書棚に保管していましたが、ふと机上旅行を思い立ち、どうせなら列車に乗ることが1番楽しかった頃の時刻表を使おうということで、20年ぶりに開くことにしたわけです。

さて、どこへ行こう。
巻頭の路線地図を見ると、この頃はまだずいぶん路線が残っていたことに驚きました。この20年で、鉄道はずいぶんスマートで便利になりましたが、それと同じぐらい無味乾燥にもなってしまった気がします。

1番変わってしまった地域は・・・北海道。すべて消えてしまった列車を乗り継いで、最北の町・稚内へ向かうことにしました。

出発は誰もが知っている上野駅。この駅には3つの顔があります。一つ目は、高架ホームを行き来する、山手線や近郊型電車。大都会の中枢を担う顔です。二つ目は、行き止まり式の地平ホームを使う、信州・北陸・東北への長距離列車。ふるさとへ誘う顔です。そして三つ目は、地下ホームから出発する新幹線。東北方面を一気に日帰り圏内にしてしまった、まさにJRの顔です。

今回はのんびりと列車に揺られたかったので、寝台特急「はくつる1号」に乗り込むことにしました。13番線に降りると、すでに列車は入線していて、新聞を積み込んだり出発準備の真最中。青森までおよそ9時間の旅なので車内販売はなく、当然のことながら自販機の設置もありません。おにぎり弁当500円とお茶を買い込んで、3段式寝台の下段に陣取りました。

22:20、電車なので出発時の衝撃もなく、ゆっくりと上野駅を出発しました。しばらくは通勤電車と併走します。サラリーマンから羨望の眼差しを投げかけられた時、別世界にいる自分に気付いて、初めて旅人らしい顔つきになる瞬間です。

駅弁を食べ終わる頃、ポイントを渡る回数も減って、都会を離れたことに気付きます。通過する大きな駅は、まだ煌々と明かりが灯っていますが、それ以外は常夜灯が勢いよく後方へ消え去る様子しか確認出来ません。車内は減光されて、寝息も聞こえてきました。当時の自分は、寝台で眠った記憶がないのですが、歳をとった今は、心地よい揺れと繋ぎ目の音が、夢の世界へ引き込もうとしています。そして23:50に宇都宮を出発したのを最後に、眠りに落ちてしまったようです。

続きます・・・。

今日もいろいろあった1日

なるべく平穏な1日をおくりたい・・・体の状態が状態だけに、以前にも増してそう思うようになりました。しかしながら、今日は痛い思いをしたり、ショックな出来事が続いたりと、とても平穏とはほど遠い1日でした。

出来事その1
パソコンに不具合が発生しました。
昨晩我々「FFR」のコンサートビデオを、DVDに焼き直していたところ、突然のシャットダウン。時間をおいて再度立ち上げてトライしてみましたが、結果は同じでした。

購入時にNikonの写真補正ソフトを入れて起動したところ、同じような現象が発生。パソコンメーカーに相談して、アップデート用のソフトをダウンロードしましたがやっぱりダメ。結局今使用しているサブ機で使用することにした「躓き」があります。

Media Playerで動画を観ていても落ちます。30分に1度の割合で。たかが2000kbpsでストリーミングしているだけなのに・・・。メーカーは、ビデオカードに不具合があるかもしれないと言っていましたが、もしかしたらCPUに負荷がかかると落ちてしまうのではないかと。でも、Pen4 3GHzを積んでいるしなぁ・・・。

と、素人がアレコレ悩んでも事態は進展しないので、明日メーカーへ送ることにしました。しばらくは、サブ機で対応することになります。

出来事その2
先月から歯医者に通院しています。30年前に作った挿し歯と、その土台の本物の歯が欠けてしまったからです。挿し歯がとれてしまっただけなら、また固定すればいいだけの話ですが、土台までイカレたとなると、治療には時間がかかります。
今日はその土台になる歯をとことん削って、土台を作り直しました。まず歯茎と同じ高さまで歯を削り、その歯の中心に空いている穴をこれまた削り直していきます。次に削った歯に余分な歯茎がかからないように周囲を切り取っていくんですが、表面を少しだけ麻痺させる薬を塗っただけなので、チクチクと結構きます。
「痛かったら麻酔打ちますから言って下さいね」
と言われましたが、30年前に通った歯医者での治療と比べたら、まったく問題にならないほど。これも医学の進歩?

次は、穴に金属の棒を差し込み固定。これが挿し歯の支柱となります。その後は型取り、歯の色合わせをして終了。全工程70分にわたる治療でした。
あごは痙攣するわ、削る時の水で首の辺りは濡れるわ、うがいをする度に洗面台は血だらけになるわで、出てきた時はもうグッタリ。人間ドックを受診した時より疲れた気がしました。

出来事その3
また上司からメールが届きました。
人事から休職手続きの書類を送るように依頼されたので送付します」
「現時点での診断書を提示して欲しいと人事から依頼がありましたので、近日中に送付をお願いします」

今回も事務的な内容のみ。
「また本人から直接メールが来たの?」と、カミさんは怒りを通り越して呆れていました。自分が連絡をする人事部の担当者と、上司へ依頼する担当者の連携が取れていないのかもしれません。メールを転送して、確認してもらうことにしました。

メールの最後には、こんな一節が書かれてありました。

「私とのコンタクトはあまり良くないものと判断していますが・・・」
「周りの方々からの情報ですと、まだ復帰までに時間がかかるようですが・・・」


ハァ・・・言葉がありません。直接の連絡は行わないとの確認をしてあるし、周りの方々からの情報って、いったいどこで誰から聞いたんでしょうか。 
19日にカウンセリングに出向くため、メールを印刷して医師に相談することにします。診断書には、どう記載されるんだろう。

12時過ぎに薬を服用しましたが、まったく効果なし。このまま朝を迎えるかもしれません。何日か前に見た悪夢が、そのまま現実になってしまったような気がします。

明日(今日ですが)は、平穏な1日であって欲しい・・・。

悪夢

今日は、とんでもないから覚めたところから始まりました。

「不安神経症」の原因である上司が突然自宅にやってきて、
「いつまで休んだら気が済むんだ!」
と、罵声を浴びせかけるんです。何度か言葉のやり取りをした後目が覚め、時計を見たらAM3:40。それからはまんじりとも出来ないまま、朝を迎えることとなりました。
当然今日1日不安定な状態になり、気持ちを切り替えようといつものようにあれこれ手を出してみましたが、どれもこれも15分として続かず、食欲もありませんでした。

12月上旬までは安定した日が続いていて、人事部の担当者へ状況報告をしようと思っていた矢先、その上司からメールが届きました。

「昇格試験があるので、1月8日までに『自職場の課題と解決に向けての方策』というテーマで論文を提出せよ」

一瞬目を疑いました。なぜ、この時期に? 事務的に記された文面には、病気に関する表記は一切なし。「具合はどうか?」「書くことが不可能な状態であれば今回は見送る」といった但し書きがあってもよさそうなものですが、考査日程と原稿用紙が添付されていただけでした。

快方に向かっていた病状は、一気に逆戻り。一睡も出来ないまま、翌日急遽カウンセリングを受けました。医師は、毅然とした態度でこう言いました。

「治療療養中の部下に対して、論文を提出させるのは言語道断。あなたが昇格について、情報の提供をお願いしていたのなら私が口を挟むべきことではないが、休職者に対してのフォローも記載せず、上司の義務としてメールを送ってきたのなら、あなたの現在の状態を考慮して、それは無視するべきです。現に病状が悪化してるじゃないですか」


このままでいいんだ・・・と、少しだけ安心して自宅に着くと、今度はカミさんが上司へ抗議すると、電話を掴んで離しませんでした。何とか宥めて納得してくれましたが、発症してからの経緯を知っているので、我慢の限界に来ていた故の行動だったそうです。つくづくありがたいなぁと身に沁みました。

休職中には、チーム内で1番まともに話が出来た派遣社員(3年も勤務してくれました)が、業務改善を訴えてもまったく聞き入れてもらえないことから10月で契約を打ち切り、後任の派遣社員もその上司に馴染めずに、12月末で辞めてしまったそうです。
現在どのような状況で仕事を処理しているのか、考えただけでもゾッとします。

この記事を書き始めて2時間が経ってしまいました。いつもと違って集中して書き込めないし、かと言って眠気も感じません。さっき睡眠導入剤を飲みました。眠れない夜というのは、とても長いし辛い。たった一瞬の夢を見ただけで、これほど生活のリズムが狂ってしまうとは、正直落胆しました。

今夜も、長い夜がやってきます・・・。

たまには家族揃って

久しぶりに、家族で出掛けてきました。

長男は野球をやっていて、土・日・祝祭日がほとんど練習や試合になりますが、今日は久しぶりの休みなので、イチゴ狩へ行ってきました。
場所はクルマで15分の旧伊豆長岡町「イチゴ狩センター」。温泉で名が通っている観光地です。

事前にNETで調べて、バリアフリーの畑を予約しておきました。お腹の高さにイチゴが栽培されていて、しゃがまなくても摘んで食べられるからです。通路の広さも十分に確保されていて、車椅子で訪れる人たちにも、親切な対応になっています。

HPから割引券を印刷していったので、100円引きのお一人様1,400円×3名分を支払い、30分食べ放題へ突入! こんな時に人間の本性って出ますよね。ハウスに入った途端、まるで打ち合わせでもしたかのように、自分と長男は無口になってひたすらイチゴを食べているんです。もちろん、しっかりと味わっていましたけどね。
ただ、次男の身長ではイチゴがチョイと高すぎて、結局カミさんが抱き上げて食べることに。だから、先行逃げ切りの自分と長男をまるで無視し、30分をフルに使ってのんびりと食べていました。
ホント、ミルクなんていらないほど甘いイチゴでした。

そして、次は函南町丹那盆地の真ん中にある「酪農王国オラッチェ」へ。牛やヤギ、ミニ豚くんたちが間近に見ることが出来、地ビールや乳製品が美味しいと評判の施設です。
しかしながら、オフシーズンということもあって中は閑散としており、お目当ての牛やヤギは、ゴロリと昼寝を決め込む何ともやる気の無い態度。おまけにイチゴの食べ過ぎで、昼食を摂るなんてまるで出来ない状況だったんです。結局全員ばらばらに、ホットドッグやコーヒーを注文しましたが、次男だけはソフトクリームをペロリ。これがかなり美味しかったんですヨ。子供は正直だなぁ。
帰り際野菜の直売を見つけたカミさんが、「安いよ!」とかなり興奮気味に買い物をしていました。

クルマに乗ると次男は爆睡、カミさんはウトウト。すると長男が
「腹が減ってきたかも~」
と言い出したので、知り合いの喫茶店で遅い昼食を。夜はさすがにお茶漬けで済ませました・・・。

休職してから「温泉へでも行ってのんびりしておいで」と、たくさんの人に勧められました。でも、今まで病気らしい病気をしたことが無い自分が、発作を起こして恐怖まで感じたことで、家を離れることは不可能な状態でした。
「もし旅先で発作が起きたら・・・」
だから、最近家族で出掛けた場所は「日本平動物園」や「三津シーパラダイス」といった地元ばかり。今回も無理をせずに出掛けましたが、ゆとりを持って十分に楽しい時間を過ごすことが出来ました。長男は、また明日からしばらく野球漬けの休日になります。

今回のお出掛けを写真付きでご紹介しています。よかったらこちらからお入り下さい。

60の手習い

カミさんの実家へ行って、義父が使うパソコンのセッティングをしてきました。

昨年末に突然電話があったんです。
「パソコンほしいから付き合ってくれ」

聞けば11月ぐらいから、パソコン教室に通ってると言うのです。定年退職から4年、面倒見の良さから常に町内会の役員を務めているのですが、いろいろと資料を作るのに、もう手書きではしんどいということから、パソコンを使おうと決心したんだそうです。

「今WORD習ってるんだけど、週1回じゃ次までに忘れるんだ」

そこでマイPCの購入を決意。しかしながら、どのメーカーのどんな機種を買ったらいいのかわからないということで、お呼びがかかったわけです。

そこで、ほんの少しインタビュー
Q:教室では、どんなパソコンを使っているんですか
A:デスクトップ メーカーは○○
Q:何をやりたいんですか
A:WORD、EXCEL、あとはメールとインターネット
Q:予算はどのくらいですか
A:プリンターとセットで20万ぐらい

それではということで、大晦日まであれこれ物色したわけです。そして初売りのタイミングに合わせて購入。初期設定は店で済んでいましたが、その後お互いのスケジュールが合わず、今日まで箱の中で眠っていました。

真新しいPCはいいなぁ。ディスプレイは光沢液晶で見やすい。キーボードもマウスもケーブルレス。今時ってみんなこうなのかいな。
机にセッティングして、プリンターとUSBで接続。印字の具合を確認してから簡単な説明です。実際にWORDを開いて文章を入力してもらい、それを保存してプリンターで出力してみました。
まぁその時の義父の顔ったら、おもちゃを与えられた子供のように、ニッコニコしながらディスプレイを覗き込んでいました。

「他にもいろんなソフトが入ってるんで、遊んでみて下さい。大概のことじゃ壊れませんから」

「早くインターネットがやりたい」

義父は、1ヵ月後の光回線工事が待ち遠しいようです。
それにしても、60歳を過ぎてからパソコンをやろうという気持ちが、妙にうれしく思いました。うちの親父ときたら、テレビのリモコンだってまともに使いこなせないのに。単純には比べられませんが、前向きな姿勢は尊敬に値します。そのうち

「おい、ホームページ立ち上げたから見に来い」

なんて、声をかけられる日が来るかもしれません。ぶはは~。




活動開始

今月27日の、浜松市曳馬(ひくま)地区で行われるミニライブのために、「F&R」の練習が本日スタートしました。

ミニライブと言っても、本編はリッキーの講演会。障害を持っていることでいじめられた小学校時代の話や、ツアコン時代に見てきた東南アジア各国の子供たちの話等をしてほしいとのことで、初めて対談形式での講演会となります。
昨年11月に、同じ浜松市内で行った講演会&ミニライブを聴いていた社会福祉協議会の方に招かれたもので、今回もフォークソングを4~5曲歌うことになりました。

・冬の稲妻
・案山子
・22才の別れ
・遠くで汽笛を聞きながら
・東へ西へ


せっかくの機会なのであれこれ冒険をしたかったんですが、練習の機会が今週と来週日曜の2回しかないので、数少ないレパートリーの中からかき集めました。(情けな・・・)

11月26日の「FFR」コンサート以来、ギターに触ったのは2度ほど。当たり前のように指はすぐにボロボロになり、声は出ない。
リッキーはネパール疲れが残っているらしく、どーにもやる気がカラ回りしているようでした。
でも、アレンジを考えながら2時間ほど続けていると、何とか形になってくるものです。少しだけ安心しました。

「団塊の世代」を中心に、フォークブーム、バンドブームだそうです。我々は後に続く世代ですが、こうして未だにライブを辞められないのは、「あの時代」に忘れられない曲を、大切に持っているからかもしれません。

今年も、音楽を中心とした出会いがたくさんあるといいなぁと、楽しみにしているわけです。

ネパールよもやま話

風の強い1日でした。息子の野球の練習も、午前中で打ち切りになったほど。浜松では工場の屋根が飛び、交通もかなり乱れました。海の向こうのNYでは気温が20度を超えたそうで。地球がおかしい。

リッキーが奥様を連れてやってきました。開口一番

「ネパールの空がおかしい」

この時季ヒマラヤを望む地域の空は、ブルーを通り越して藍色に見えるそうですが、曇っていたりごく普通の青空だったりしたそうです。
首都カトマンズから西へ250Km、バスで6時間行った所にポカラという都市があります。そこから「マチャプチャレ」「マナスル」「ダウラギリ」といった、7~8,000m級の険しい山々を見ることが出来るそうですが、今回はぼんやりとした稜線しか確認出来なかったそうです。これも温暖化のせいなんでしょうか。

17名からなるキャラバン隊は、孤児院や学校へ、中古の鍵盤ハーモニカや文房具を届けるボランティア活動を行いました。リッキーはこのポカラではかなり名(現地名=ヤン・バードル・グルン)が通っているらしく、いつもたくさんの人たちに歓迎されるのだそうです。

今回は楽器を遠巻きに見ていた子供たちの前で、ミニ演奏会を敢行。「かえるのうた」の輪唱や「さくら」等数曲を演奏すると、どこからともなく人が集まり、仕舞いには大喝采を浴びたのだとか。本当にたくさんの学校や施設で喜んでもらえたそうです。

ただ、文房具は以前よりも手に入る機会が増えたとか。今後はある理由からチベットからの難民が増え、あちこちにキャンプが設置されていることから、文房具よりも古着を持っていくことを検討するそうです。

やっぱりリッキーは言いました。
「次回はいっしょに行こう。活動の様子や、ヒマラヤの山々を写真に残して欲しい」

自分が荷物を背負うのはとても無理ですが、たとえば今回のように、ミニ演奏会に目を輝かせている子供たちの写真や、荘厳な山々の写真を自分のサイトで紹介出来たら・・・と思いました。

土産を貰いました。「ブッダチット」という菩提樹の木の実で出来た数珠です。これを腕に巻いていると、ラマ僧のパワーが宿るのだそうです。けっこうお気に入り。
KC370002.jpg

リッキー’s ブランチ

FFR」のメンバーで、同級生のリッキー久保田が担当しているラジオ番組があります。
コミュニティーFM局「ボイス・キュー」で、毎週土曜日のAM11:30-12:00からON AIRしている「リッキー’s ブランチ」がそれ。1週間の教育関係の新聞記事を切り抜き、それについて大学教授のリッキーがコメントを付けていきます。

そのリッキーが、先月27日から今日まで、ネパールを訪れていました。中古の鍵盤楽器やハーモニカ、文房具を、子供たちに届けるためです。そのために先週今週と、自分がピンチヒッターを務めました。

とは言ってもズブの素人、Dはチーフ・パーソナリティーの小坂真智子(まっちー)さんが担当し、前の番組が終ってロビーをウロついていた、川柳作家の飛遊夢(ひゅーむ)さんをスタジオへ引きずり込んでサポートをお願いしました。
小坂パーソナリティー

先週はどこか緊張していたんですが、今日は「FFR」のナベフサ氏も乱入したおかげで、スタジオの中がオヤヂ臭せぇの臭くねぇのって・・・。NSPの曲を2曲かけた時には、3人が思わず口ずさんだりして。(その時まっちーは、次のコーナーの準備でオヤヂたちを無視)

成田から静岡へ向かっているリッキーと電話で話をする予定でしたが、運転中ということで助手席のボランティアさんが、代わりにネパールでの活動の様子を紹介してくれました。3年前に訪れた時と比較すると、信号や道路が整備されて見違えるようだと言っていました。

「ただ、信号を守るとは限りませんけどね~」

マジ?

成人式の話題でまとめ、番組は無事終了。帰宅した途端リッキーから電話があり、
「2週間ありがとね~。明日土産持ってくからさぁ。今?海老名S.A。他の連中はメロンパン買いに走ってるけど、ボクは雨降ってるからクルマで留守番。なんかうまく日本語が話せないよ、ぶはは~」
明日はしこたまネパールの話を聞けそうです。またイヤって言うほど「いっしょに行こうぜぇ~」って誘われるんだろうなぁ。

カウンセリング

2週間ぶりに心療内科でカウンセリングを受けてきました。

休職し始めた頃は、週に2度のカウンセリングや検査を行っていましたが、11月下旬から2週間に1度のペースになりました。
カウンセリングは、この2週間の出来事を出来るだけ詳細に報告し、もしその中で不安定な状態になった原因があった時は、ゆっくり時間をかけて解決方法を見つけていくパターン。今回は安定した日が続いたので、30分ほどで終了しました。
(だいぶ良くなってきている)と思っていたら、

「世間が正月休みだから、あなたも安心出来たんでしょう」

という医者のひとこと。確かに今でも平日には焦りを感じることがあります。鋭いなぁ・・・。
会社が始まれば、自分の異動先も決まるはずです。そうしたら、もう1ステップ復帰に近づくのでは・・と考えていますが。
でも、最後に釘を刺されました。

「再発したら治癒までに年単位の時間がかかるから、慎重に治していきましょう」

この病気の本当の怖さに、もしかしたらまだ気付いていないのかもしれません。

はじめまして

今日からブログを始めることにしました。

大学を卒業して仕事に就いてからというもの、あまりにも「その日」を振り返ることが出来ず、ただただ時間に流されてきた毎日だったような気がします。思うようにならない両足は、学生時代はそれほど不便さを感じなかったものの、就職してからは時間に追われて酷使してきたツケが回り、老化も加わって今では悲鳴を上げている始末です。

加えて、2005年6月頃から上司と仕事の板ばさみに遭い、しばらくは誤魔化し誤魔化し仕事を続けていましたが、不眠症とプレッシャーに悩まされ続け、ついに発汗や動悸といった今までに経験したことのない発作に襲われて心療内科へ。病名は「パニック障害」と「うつ病」からなる「不安神経症」と診断されました。

「仕事から離れないと、あなた危険だよ」

医者からそう言われて、2006年8月末から休職しています。始めは会社を休むことに対して焦りも感じましたが、睡眠導入剤を服用して次第に眠れるようになってから、本当に久しぶりに「生きてるなぁ」としみじみ感じました。
その後リハビリや投薬を続け快方に向かっていましたが、その上司に2度までも電話やメールでの嫌がらせをされて、再び病状が悪化してしまいました。会社からの連絡は、すべて人事部から送ってもらうことになっていたのに・・・。

昨年末になって、人事部へ異動願いを提出しました。もう、元の職場に戻ることは出来ないし、カミさんからもそれだけはしてくれるなと懇願されました。

現在は、安定した日々を送っています。明日心療内科での診察がありますが、「異動先が決定すれば、もっと回復が早くなる」という医者からのアドバイスを信じて、もうしばらく頑張ってみることにします。

病状を理解して協力してくれている家族、心配してメールを送ってくれる同僚、そして何もやる気が起きなかった時に、事あるごとに音楽活動の機会を与えてくれた中学時代からの友人に、心からの感謝の気持ちでいっぱいです。

今回の出来事は、ゆっくり歩く勇気を与えてくれました。
GO TOP
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。